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Honest Liar

东京车站・御茶水

翻译了一片写御茶水车站的記事,但后面很多内容祭り,实在有些烦人就没有翻,但介绍的两处景点感觉还是值得一去。翻译就随便看看,不要较真我拙劣翻译(捂脸),虽然我对日本的神道教没有太大兴趣,可是它对日本的影响太大了,所以了解日本,必然会接触到神道教。但其实御茶水附近还有很多别的东西更文艺适合小心情,下一篇再写吧。

御茶ノ水~気ままに歩く。東京歴史散歩

闲游御茶水,在东京历史中散步

江戸時代を機に栄えた東京。今も色濃く残る文化の街をお散歩しませんか?歩いて感じる東京は、電車から見る風景とは別世界。御茶ノ水駅からはじめる歴史散歩に出発です。

因江户时代而繁荣兴起的东京,浓墨重彩的文化至今仍残留在一些街道中。我们一边行走一边感受东京,这是一个无法从电车里看到的另一个世界。今天从御茶水站出发,开始漫步历史。 

◯御茶ノ水の由来

御茶ノ水という土地の由来は、実に明快。1596年に神田付近にあった高林寺(現在は文京区)で突如として水が湧き、その水を将軍のお茶用に提供したことから御茶ノ水という名前が付きました。この付近は谷のような地形をしているために、茗溪(お茶の谷)とも呼ばれていたそうです。

◯御茶水的由来

御茶水这片土地的由来其实很明了。1966年神田附近的高林寺(现在属于文京区)突然涌出水来,这个水被用来提供给将军泡茶,于是得名御茶水。又因为这附近的地形很像山谷,所以被称为茗溪(茶之谷)。

 

◯神田川のはなし

江戸城の防衛の要として重要視された濠(ほり)。人工的に徳川幕府によって整備されたものが多く、御茶ノ水駅の下を流れる神田川も防衛の要としての機能を果たしていました。1620年に開削したこの川は、本郷台地の端を切り裂いて作られました。御茶ノ水駅をでて南側(神保町方面)の土地の高度が低いにも関わらず、わざわざ土地の高度が高い方を人工的に開削したので、大規模な開削作業になったと言われています。

◯神田川的故事

护城河被视为江户城的重要防卫。其中大部分是由德川幕府策划,人工挖掘的。御茶水站下流淌的神田川也曾作为防卫要地发挥着作用。1620年年开凿的这条河流,是将本乡台地的一端切割开建成的。虽然御茶水车站南侧的神保町方向的土地更矮一点,但由于从地势较高一侧人工开凿,总体上的增加了工程量。

城の防御を固めるだけの目的であれば、土の高度が低い神保町方面を選んた方が懸命でしたが、船による物流や都市整形のための土の需要や排出など、このルートの開発を選んだ理由は多々ありました。都市計画を重んじた江戸幕府は濠を始めとして、人工的な土地の造成を多く手掛けるのですが、その一つの跡がこの神田川といえるでしょう。さて、その御茶ノ水駅を聖橋口改札からでて左手の聖橋を渡ると、下に向かう階段があり、ここを下ると、湯島聖堂に入ることができます。

如果护城河只是作为防御目的的话,那么从地势较低的神保町方向施工更合理一些,然而由于船运物流、城市规划土地需要、以及排泄疏通等多种原因,最终选择了从御茶水一侧开始施工。注重城市规划的江户幕府以建造护城河为开端,人为的改变了很多地理构造,神奈川就是人工改造留下的痕迹之一。从御茶水车站的圣桥口出来,走过左手边的圣桥,有一段向下的台阶,沿着台阶走下去就能够走进汤岛圣堂。



「生類憐れみの令」で有名な五代将軍 徳川綱吉によって1690年に開かれた湯島聖堂は、1797年に「昌平坂学問所」を開設します。幕府直轄の学問所として儒学や漢学、時代が下ると洋学や医学の教育を行っていきました。この昌平坂学問所は後の東京大学になるのは有名ですが、実は現在のお茶の水女子大学や筑波大学の源流にもなっているところなのです。

汤岛圣堂由五代将军德川纲吉成立于1690年,他因“生类怜悯令”被家喻户晓,圣堂在1797年开设了“昌平坂学问所。它作为幕府直辖的学问所,教授儒学、汉学,随着时代的发展还教授西洋学、医学教育。昌平坂学问所后来虽然因变成东京大学而名声大噪,但它其实也是御茶水女子大学和筑波大学的起源。

江戸時代から近代までつづいた文教の中心として、現在も学問を志す人々や受験生も多く訪れ、学問成就の絵馬が多く下げられています。

从江户时代持续到近代,汤岛圣堂作为文教的中心,现在也有很大多学者和考生来这里探访,祈求学业成就的绘马数不胜数。


決して大きくはありませんが、境内は非常に緑が多く、近くに御茶ノ水や秋葉原があるとは思えない落ち着いた静けさがあり、うつろいゆく四季を感じる清々しい場所です。

虽然面积不算大,但里面绿色植被丰富,有着让人沉下心来的宁静,是能够感受到四季变换的场所,恍然之间可能无法想象这附近是御茶水和秋叶原。



さて、湯島聖堂の西門を右手に、湯島聖堂前交差点を右手に進むと、大きな鳥居があります。

  

从汤岛圣堂的西门向右,再走过教堂前十字路口向右步行,有一个巨大的鸟居。

鳥居をくぐると色鮮やかな隨神門(ずいしんもん)が見えてきます。

穿过鸟居,会看到色彩鲜艳的随神门。 


江戸総鎮守として1300年間の歴史を持つ神田明神です。神田明神の氏子町は北は秋葉原、南は丸の内までで、神田明神は氏子町の範囲の中では随分北の方にあります。実は神田明神はもともと現在の丸の内の将門塚付近(現在の大手町付近)に位置しており、当時は安房神社と呼ばれました。1616年に江戸城天守閣の鬼門の方角(北東)である現在の場所に移動します。氏子町の範囲はおそらく移動前から現在まで変わること無くそのままになっているので、現在の氏子町の範囲が現在の神田明神の随分南側に偏っているということなのでしょう。

这是作为江户总镇守的神田明神,已经具有1300年的历史了。神田明神的氏子町北及秋叶原,南至丸之内,神田明神在氏子町十分靠北的位置。其实神田明神原本是在丸之内的将门冢(大手町)附近的位置,当时被称为安房神社。但在1616年它被移动到天守阁鬼门的东北,也就是现在所处的位置。而氏子町的范围却没有怎么变动还是原来的样子,所以现在氏子町在神田明神相当偏南的方向。


この色鮮やかな随神門は、関東大震災により焼失してしまいましたが、1975年に昭和天皇即位50周年の事業として再建され、1998年に平成の御造替事業で塗り替えられました。随神門の左右に配置されている随神像に使われた木は樹齢500年で、加藤清正(1562〜1611)によって植えられたと言われています。

这个色彩鲜艳的随神门,曾在关东大地震中失火被烧毁,后来在1975年,昭和天皇即位50周年时重建,并在1998年重新修缮涂上新色。随神门左右两边装饰的隋神像,由树龄为500年的木头加工而成。相传该树是加藤清正(1562~1611)栽种的。


随神門をくぐると本殿です。こちらも関東大震災で焼失しましたが、1930年に再建されました。その後、東京大空襲で焼夷弾が落ちているのですが、再建時に鉄筋コンクリート構造を採用したおかげで被害は少なかったと言われています。

穿过隋神门后就是本殿。这里也同样在关东大地震中被烧毁,于1930年重建。虽然在这之后,东京大空袭中又遭到燃烧弹的袭击,但由于再建时采用的是钢筋混凝土结构,所幸没有受到重大的破坏。 

ps

以防万一的词汇解释:

1.绘马:就是寺庙神社里,用来写愿望的木板。

2.随神/随身:跟随着主神的保护神。

3.氏子町:信徒居住的街道。










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